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日本語コラム

日本語教育に関連するコラムを掲載するコーナーです。

国語と日本語

 国語と日本語はどう違うのでしょうか? たとえば国語辞典の大辞泉には、国語は次のように説明されています。

  • 1 一国の主体をなす民族が、共有し、広く使用している言語。その国の公用語・共通語。
  • 2 日本の言語。日本語。
  • 3 「国語科」の略。「―の先生」
  • 4 外来語・漢語に対して、日本固有の言葉。和語。大和言葉。

 この中では、特に2と3が私たちがふだん抱いている国語という言葉のイメージに合致していると思います。国語には、日本人の視点から見た「自国の言語」という意味があります。韓国・台湾・中国・ベトナムでも国語という名称を使っているのですが、たとえば韓国人にとっての国語は韓国語(朝鮮語)になります。国語に対して、日本語という言葉は多くの言語の一つとして日本語を捉えていると言えそうですが、国名をはっきりと示すことによる明確さがあり、むしろ国家主義的とも言えます。

 国語と日本語は基本的には同じものですが、これが国語教育と日本語教育になると明確に違ってきます。国語教育とは日本語を母語とする人を対象として日本語を教えることです。国語という言葉は主に学校教育で使われています。これに対して、日本語教育とは日本語を母語としない人を対象として日本語を教えることです。

 母語という言葉が出てきましたが、母語とは国籍や民族とは関係なく、その人が生まれ育った地域の言葉です。たとえば国籍は韓国で、民族的には朝鮮民族である二世以降の在日コリアンの母語は、一般的には日本語です。母語とは別に、母国語という言葉もあります。母語と母国語は同じ意味で使われることも少なくありませんが、厳密に区別すれば、母国語は母国(祖国)の言葉であり、在日コリアンの母国語は朝鮮語(韓国語)ということになります。

 ここで、国語教育と日本語教育の中身について少し詳しく見てみましょう。国語教育では、母語としての日本語は日本人として国民としてのアイデンティティ形成の基盤と考え、日本文化の全体性とともに日本語を教育します。それに対して、日本語を母語としない人を対象とする日本語教育では、日本語は外国語や第二言語として学ばれるのが基本です。

 日本語教育は、学習者の置かれている状態や目的に応じて内容が違ってきます。学習者が外国にいて日本語を学ぶ場合、または日本に一時的に滞在して仕事や研究のために日本語を学ぶ場合でも、外国語として日本語を学ぶことになります。これは日本人が外国語を学ぶのと同じです。それに対して、学習者が日本に生活の基盤を置いている場合は、第二言語として日本語を学ぶことになります。その場合でも、生活に必要な基本的なコミュニケーションの道具としての日本語を教える段階から始まり、様々なレベルがあります。

 日本を生活の基盤として永住する人に対しては、日本文化の全体性とともに日本語を教えることが必要です。しかし、それも日本語学習を始める年齢によって、教育の内容は変わってきます。言語を習得する脳の構造上、小学校高学年ぐらいまでに日本に来ていればほぼネイティブスピーカーと変わらない日本語能力を身に付けることができますが、一定の年齢を越えている人の場合は、日本語は決して母語に取って代わることはできません(※注1)。日本語のネイティブスピーカーになるのは、(日本語教育ではなく)国語教育を受けるその子供(二世以降)の世代からです。

 このように国語教育と日本語教育には、学習者の置かれている状態と学習目的による違いがあることはお分かり頂けたと思います。学校には在日外国人やアイヌなどのマイノリティがいるので、「自国の言語」という意味を持っている国語という名称は適切ではないという批判もあるようですが、国語を日本語に変更したところで、日本の学校ではマイノリティに対しても日本文化の全体性とともに日本語を教育することには変わりません。

 在日外国人などのマイノリティも、国籍を持っているという意味での国民ではありませんが、日本という国をともに構成するメンバーです。母語は人間の思考や情緒の基盤であり、母語をしっかり学ばないと、その後の人生のすべての基礎を欠くことになってしまいます。従って、日本語を母語とするマイノリティもまた、日本文化の全体性とともに日本語を学ぶ機会を十分に享受すべきです(※注2)。その意味では、マイノリティにとっても「国語」でいいのではないかと思います。大切なことは、日本語教育と国語教育には理念的にも方法論的にもはっきりとした違いがあるということをしっかりと見据えることです。

 言葉に対する態度としては、伝統的な国語という言葉も捨て去らずに国語と日本語という言葉を適切に併用して行けばいいと思いますが、結論を言えば、国語か日本語かという議論は本質的なものではなく、大切なのは母語をしっかり教えることであり、そのために最善を尽くすことです。そして私たち日本語を母語とする者がそのような姿勢を持つことは、日本語を外国語や第二言語として学ぶ学習者に対しても必ず寄与することでしょう。

※注1 大人になってから日本に来た人でも、日本語や日本文化を深く理解することは可能です。知性と想像力のある人ならば、学ぶ姿勢によってはふつうの日本人以上に深く日本を経験し、理解することができるでしょう。ただしその人が日本語や日本を理解する基盤は日本語ではなく、その人の母語です。

※注2 「日本文化の全体性」とは不変の閉じた構造を想定しているわけではなく、その文化に生きる人間として必要とされるあらゆる言語能力を十分に駆使し、自己確立できるように日本語を学ぶことを、「日本文化の全体性とともに日本語を学ぶ」と言っています。

(K)

平成18年7月20日

母語支援の必要性

 外国から帰国した日本人や外国人に対して、日本語が習得できるように支援することを日本語支援と言います。日本語教室も日本語支援の一つと位置付けられます。しかし、日本語支援だけでは不都合な場合があります。その時に必要になる言語支援が、母語支援です。

 ここでは、特に帰国・外国人児童生徒への母語支援に考えてみましょう。言語習得研究において臨界期と呼ばれる小学校高学年ぐらいまでの子供は、概念的に理屈で学ぶのではなく、自然に(母語習得と同じように条件反射的に)言語を習得することができます。ですから、小学校高学年ぐらいまでに日本に来た子供は、比較的早く日本語を習得することができ、ネイティブと同じレベルで文法を操れるようになります(ネイティブと同じレベルの発音を体得するには、もう少し低年齢でその言語の環境に入る必要があると言われています)。小学校高学年ぐらいまでの子供は、母文化特有の発想や行動様式がまだ固定していないので、異文化に適応することも容易です。しかし、それ以上の年齢になってから日本に来た子供には、同世代の日本の子供と同程度の日本語能力を身に付けることは困難ですし、母文化の発想や行動様式が固定しはじめているため、異文化適応に苦労することも少なくありません。

 学習に必要なレベルの日本語習得の段階で躓くと、日本語で行なわれる学校での学習について行けず、現代社会で生きていくために必要な勉強をしなければならない年代に、学習が遅れる、あるいは学習し損なうという事態が起こります。同時に、母語も忘れてしまうために、親とのコミュニケーションも難しくなります。こうなってしまうと、学校や地域、さらに家庭でも孤立し、非行に走る原因にもなります。

 そこで必要になるのが、母語支援です。ある程度の年齢になって日本に来た児童生徒にとって、母語支援は日本語支援以上に必要です。母語を使えば同世代の日本の子供と同程度の学習ができるのに、その機会を失うことは、本人や家族にとって大きな損失です。日本語の習得も中途半端で、母語も喪失してしまうことの悲劇は、少し想像力を働かせれば理解できるでしょう。人格形成期に言葉を失うと、学力や親とのコミュニケーションの問題だけではなく、アイデンティティにも深刻な問題を生じます。

 母語支援は、ボランティアだけでどうにかなるものではありません。外国人の集住地区では、外国人のコミュニティ自らがかなり苦労をして子供たちの母語教育に努めているところもありますが、そうしたコミュニティを持たない外国人にはそれもできません。やはり母語支援は、政治や行政が政策的に取り組むべきものでしょう。具体的には、児童生徒の母語で教えられる教師を、必要に応じて配置することです。さしあたり留学生などをうまく使えば、それは不可能ではありません。そしてそういう体制ができれば、そこで学んだ子供の中からバイリンガルの教師が育ってくるでしょうし、外国語を習得した日本の若者からも帰国・外国人児童生徒を教える教師を志す者が出てくるでしょう。しかし、現状を見ると、自治体によっては積極的に取り組んでいるところもありますが、全国的には支援体制が整備されているとは言えません。

 日本はこれまで、外国人を日本社会に同化させるという政策を取ってきました。これは単一民族国家・単一言語国家を維持するためです。このような立場が母語支援のような多言語社会化につながる政策に対して消極的な姿勢を取らせてきた原因と考えられますが、在日外国人児童生徒の大量の未就学状態の放置などの結果をもたらしています。

 しかし、日本はすでに多言語社会であり、異なる文化を持った人々の共生という発想への転換が現実的に必要です。社会の構成員としての在日外国人に対応した、外国語による情報提供や相談活動、通訳・翻訳、日本語支援、母語支援などの行政の言語サービスの整備は、早急に求められる課題です。特に、帰国・外国人児童生徒に十分な教育の機会を与えることは、あらゆる観点から見て消極的になるべき理由はなく、迅速に取り組むべきです。そしてそれは、国際化に対応するものであるとともに、実は外国人の日本社会への円滑な適応や日本社会の発展のためにも必要なのです。

 外国人の受け入れを適切にコントロールすることは必要ですが、受け入れた人々に関しては人間的に扱うという原則を確立すべきでしょう。

(K)

平成18年7月26日

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